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河村町子

 自室のドアノブが壊れてる。だから僕はすぐに閉じ込められることが多くて、けれどもずっと面倒臭がって、そのままだった。何度も捻れば扉はいつかのタイミングで開く。よって、そのままだ。急いでいる時に限って数分間、強いられた格闘で負けたことはない。力を込めて手前に引きながら、壊れたネジの機嫌さえ窺えば、勝機が用意されていないことなどないからだった。遅刻の原因にはならないさ、これは僕の日常であり、鍵なんて既にあるんだかないんだか誰も知らないんだよ。
 出られない。だけど予定通り。
 今日は二分半、自室を飛び出して、最寄り駅に向かう。高校までは徒歩通学だったのだけれども、大学は遠く、毎朝電車に乗ることになってしまった。別に嫌だとは思ってない、面倒臭いなって思うことはあるけれど、何の為に勉強したかってこの為だからだ。進学して、例えば劇的に価値観が変わるとか、そういうのはないんだなって、わかってたから大丈夫。落胆することもないけど過剰な期待もない。諦めているわけじゃあなくて、至って普通なだけ、謳歌しようとは、思ってるよ。
 少し寒い。まだ春じゃなかったんだ。
 ひとの多い車両は少し暑い。この瞬間だけいつも、自室のドアノブを修理するにはまずどうしたらいいんだろう、と考える。このときだけだ。降りる頃には忘れてしまうし、結局こうして出てこられているんだから問題はないって、思うどころかそう考えていたことすら忘れてる。そういうもんだろ。今考えていたことを何日先まで覚えていようと考える、こと自体忘れる。よくあることさ。だけど何かを覚えていようと考えていた、こと自体は覚えてることもある。そういうのは厄介だよね。誰に聞いても当然ながらわからない。聞こうとすることすら、すぐに忘れる。
 目の前のひと、カモミールのにおいがする。
 二回乗り換えて、駅からは近いので徒歩。かっこうつけてジャケットだけ着てきたのは失敗だったな、せめて首に巻くものが必要だった、もうそんな時期ではないはずだけれど最近は天気なんていつだってころりと変わるんだ。ぎゅう、と肩を竦ませるようにして改札を抜け、曇天の下へ踏み出した。ざんねん、さっきまで晴れていたのに。そろそろ通い慣れてきた通学路、急な坂もない平坦な直線とちょっとの曲がり角。もうひとつ離れた駅からバスで来る学生も多いから、見知った顔を見つけるのはまだ先だった。今年の冬は丈の長いコートを買おう、似合わないと知っていても、寒さには戦う前から降参したい。手袋と、それから、
 もっとたくさん入る鞄も

 はあっ、と吐く息が白いだなんてね。昨日はもっとずっと暖かかったんだ、今日の軽装がその証拠だろう、教室に入ってからアンケートを取ればきっと半数以上が昨日より今日の方が寒いって言うに違いない。実際そうなんだろうけれども、体感温度ってのは個人差があるもので、昨日も今日も変わらないと感じる人間だっていないことはないんだろう。僕は寒いと思うけどね。
 煙草。十時過ぎ。
 ここにきて二分半が惜しいと思うのさ、今いちばん後ろの席に座らなかったら、出席を確認する紙だって逃す時間だ。だから十時過ぎ、忘れずに、覚えておこう。


 そうだ、あの子をさがさないと。

 

 

 

 

 

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辺 里衣

 わたしはずっと脇役だった。わたしはわたしの人生の主役として生きているんじゃなく、誰かの人生の舞台を通り過ぎるだけの通行人Aだ。でも世の中の大多数はみんなそう、わたしのようにこっち側の人間で、主役になれるのなんてほんの一握りなんだということもわかっていたから、わたしは早々にスポットライトを当ててもらうことを諦めて、代わりに多数派であることになんとなく慰められていた。わたしだけじゃないんだ、みんな同じだと思えば安心できる。王子様やお姫様なんて本かテレビの中にしかいないんだよ、って気付いたのは何歳のころだっただろう。ときどきは女優やモデルの子たちみたいに、華やかで煌びやかな世界の人になれたらよかったのになんて夢見たこともあったけれど、でも、世の中には役割というものがあるのだ。相応不相応というものが。だって文化祭でジュリエットをやるのはクラスの一番かわいい女の子って決まってる。十四歳で恋愛して駆け落ちして早とちりで死んじゃうなんて、しかもそれがたった五日間の出来事だなんてジェットコースターにもほどがありすぎていまいち共感できなかったけど、ジュリエット、って名前の響きだけはいかにもヒロインって感じで好きだったんだけどな。でも最初から自分が選考対象にもなれないことを知っているわたしは配役決めに手を上げたりせず、おとなしく衣裳係でドレスを縫い、うっかり刺してしまった指を舐める。結局その年の文化祭は、男子人気ナンバーワンの明日香ちゃんが役と一緒にロミオの小林くんまで射止めて終わったのでした、めでたしめでたし。
 
なんて、朝から高校二年の秋なんて二年も前のことに思いを馳せてしまったのは、テレビでロミジュリミュージカルの初日舞台挨拶のニュースが流れていたからだ。当たり障りのないコメントの後、すぐに次の画面に切り替わって、きゃあきゃあと女の子の歓声が流れ出し、人気バンドRED-ZONEのライブツアーが昨日からスタートしましたとアナウンサーが言う。ボーカルの顔が大写しになって、アップにも耐えられる端正な容姿はさすがアイドル系バンドと騒がれるだけあるなあと思った。でも、わたしはもっと真面目で誠実そうな人のほうが好み。

 

 

 

 

 

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三咲

 夜中のコンビニは明るい。 
本気でCO2の削減を提案している国ならば、まず夜中のコンビニの明るさに上限を設けたらどうなんだ、
と思ったが、あれはあれで犯罪を抑制する役目もあるらしい。大学の、何だったかの講義でそう聞いた。
でも明るすぎると思うのだ。
以前、テレビでコンビニの明るさについて特集していて、床に反射した光量まで調べているのを見て
バカなんじゃないかと笑ってしまったことがあるが、先週、ついにうちの店でも検査が実施されてしまった。
結果、もっとよく磨きなさい、とのことだった。
  これだけ明るければ充分だと俺は思う。
そら店内にイートインがあったってガキは表でたむろしちゃうだろうよ、明るすぎるもん。ああ、それなら明るくていいのか。いやだめだろ。 犯罪を抑えるつもりならガキも保護しとけよ。俺はしたくないけど。 
  そんなことを考えながらぼんやり雑誌を並び変えていると、入り口のチャイムが鳴った。 いらっしゃいませーえ、とテンションも低く声を出すと「やる気ないなあ」と客に笑われた。
「葉子ちゃん」
「こんばんは、葉子ちゃんでーす」 
 さらっさらの髪をギラギラのリボンでまとめた葉子ちゃんは、まっすぐ酒類のコーナーへ向かう。 レジに居たもう一人の店員、金子がこっちに鬱陶しい視線を投げてきやがった。現金な奴だ。 前までスッピンの葉子ちゃんには視界に入ってさえいなかったくせに、二週間前にフルメイクの彼女が来店して以来、ものすごい食いつき様だ。 幼なじみの俺としては葉子ちゃんがスッピンで表を歩こうが、フルメイクで男を虜にしようがどうでもいいのだが、金子のこの反応というか態度というか、 これは何だかいらっとするものがある。スッピンの葉子ちゃんは、不細工ではない。愛嬌がある。俺はいいと思う。だが化粧をした葉子ちゃんはものすごい。 もう、印象が全く違う。まるで違う。化粧って……と唖然とするレベルで違う。 
 ふと、ラックに並べた女性誌のコピーが飛び込んでくる。
「カンタン 足し算メイク」 
 カンタンかどうかは知らないが、葉子ちゃんの化粧は足し算なんてレベルではない。こう……上手くたとえられないが、何ていうか、掛け算も越えている。 義務教育で学習する範囲の計算式ではない。俺は幼なじみだし、未だにちょいちょい彼女と遊ぶのでよく知っているが、葉子ちゃんの化粧たるやイリュージョンの範疇なのだ。 だから金子の反応に苛立つ。金子なんぞ、彼女の変身後の姿のうちの一つしか知らないくせに、あんなに舞い上がっている。金子が悪いわけでもないが、特別教えてやる義理もないので、俺は葉子ちゃんが他にどんな風に化けるか、また、どんな男が好みなのかは教えてやらない。
「青葉」
「ん?」
  きゅ、と葉子ちゃんのぼけたスニーカーが、つるつるピカピカの床を鳴らした。客だからいいんだけど、葉子ちゃんの靴が汚いせいでまた光量が減る床になってきた。ほんの一部だけだけども。
「今日、何時上がり?」
「えー……あと二十分くらい」
「おっけ、じゃあ待つ」
  え、と葉子ちゃんを見上げると、その拍子に彼女越しに金子の嫉妬の視線とかち合ってしまった。金子、金子、この人は幼なじみで友人で、お前はただのバイト仲間だから、そんな視線を寄越されても俺はなにもしないから。そういうもんだから。
 長い髪と、ギラギラの粒がついたリボン。に、スッピン。バランスが悪いが変身後の彼女を思えば、まあそんなもんかとも思う。
 結局葉子ちゃんはフライドポテトと、ロゼの小瓶を買ってイートインコーナーでおとなしくしていた。時折、携帯をいじったりしながら。レジに戻ると金子がするるると隣に寄ってきて、ほわ、とため息を吐いた。金子はとてもコミカルな言動をするので見ている分にはおもしろいが、決して関わりたい部類の男ではなかった。巻き込まれたくないのだ、そのコミカルワールドに。
「青葉君」
「なに」
「葉子さんは彼氏とか居ないのかな」
「さあ……訊いてみたら?」
「青葉君知らないの? 仲いいのに?」
 どれだけ仲が良くても知りたくないことは訊かないし、興味がなければ話題に出ないだろう。金子のこの、いっそ清々しいまでに若者テンプレートの脳内は愛すべき鬱陶しさ、だと、理解はするがやっぱり鬱陶しい。
「知らない。そして時間だ。俺は上がる、お疲れさまでーす」
 お疲れさま、だけ大きな声で言ってやると、葉子ちゃんは顔を上げてこちらを見た。一つ頷くと、どこか嬉しそうな顔をして席を立つ準備をする。俺も早く着替えてこよう。
「え、なに、待ち合わせ? マジ、え、青葉君と葉子さんってほんとは付き合ってたり」
「しない」
「しないのぉ?」
「しないの。……あ、肉まん一個キープ」
「はいよ」
 金子が俺に対して適当な態度なので、俺もそうする。気疲れしないし、バイト仲間としては適度な距離だ。特に深夜バイト(もう朝だけど)の相手としては、かなり良い関係だと思う。だが金子には絶対葉子ちゃんを紹介しないと決めている。まあ、普通に葉子ちゃんの趣味じゃないってのもあるけど、こいつの口から葉子ちゃんのノロケなんか聞くことがあったら俺はきっと酷く落ち込むに違いないのだから。